エッセイ

廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の十四「名前の重さ・・・のお話」

歌舞伎の演目「傾城反魂香(けいせいはんごう)」の一場面で「浮世又平」通称「吃又」(どもまた)といわれているお話しがあります。江戸時代1654年(承応3)、宮廷の絵所預となり、 大和絵の主流だった土佐派を再興。狩野派と対抗した土佐光起という絵師が、そのモデルといわれていますが、どんなお話しか参考までにあらすじを引用したいと思います。

<参 考> 「傾城反魂香(けいせいはんごう)吃又」あらすじ
大和絵の一派である土佐派の総帥土佐将監光信の家に、近郷の百姓たちが押し寄せてくるところから話しが始まる。
弟子の修理之助が何の騒ぎかと尋ねると、薮の中に虎が逃げ込んだと言う。「日本に虎などいるはずがない」と修理之助はあざ笑うが、その騒ぎを耳にした将監と北の方が奥からあらわれ、逃げたと言うのであれば探させよ命じる。すると、百姓たちの言う通り薮の中に虎が居り、それを見た将監は、それが狩野元信の描いた虎に魂が入って、絵から抜け出たものだと見破った。そこで修理之助は、「自分にその虎を消させてほしい」と師に願い出ると、見事な筆捌きで、その虎を消してしまう。将監はその腕をほめ、その場で土佐の苗字を名乗ることを許す。

日も暮れはじめた頃、修理之助の兄弟子にあたる浮世又平が女房のおとくといっしょにやって来た。又平は生まれついての吃りで思うように話せないため、いつもおとくが夫に代わり話をするのだ。
北の方が修理之助に土佐の苗字が許されたと知らせると、又平はぜひ自分にもと、おとくともども哀願するが、将監に冷たくはねつけられ、又平夫婦は悲嘆の涙にくれる。
と、そこへ、狩野元信の弟子の雅楽之助が、元信の姫君の危急を知らせにくる。又平は姫君救出の討手にと志願するが、将監は取りすがる又平を振り払い、画の道で功をなせときつく叱りつけた。
又平夫婦は自分たちの不遇を嘆き、死を覚悟する。おとくは「この世のなごりに」と手水鉢に自画像を描くことを又兵にすすめる。又平は心を込め、最後の絵を描き、精魂尽き果ててその手水鉢から離れた。

おとくが「別れの水盃を」と水を汲もうとしてその手水鉢に近づくと・・・なんと手水鉢の表と裏に絵があるではないか!又平の絵が石の裏側まで抜けたのだ。ふたりは腰が抜けるほど驚き、また抱き合って喜んでいると、奥から出て来た将監が、手水鉢の絵を見て賞賛。又平にもめでたく土佐の苗字が許されることになり、さらに姫君救出の役も改めて命じ、土佐の紋の入った新しい着物に大小の刀を与えた。
いそいそと夫のしたくを手伝うおとく。又平は見違えるように立派な姿になって、おとくの打つ鼓にあわせ、旅立ちの祝いの舞いを舞う。舞に併せて歌う又平の言葉は不思議な事によどみなく、全て望み通りの進展。おとくも喜びの涙にくれ、凛々しい夫の晴れ姿を見送るのであった。

今回スカイパーフェクトの放送で、久々にこの芝居を見る機会があり、師匠から名を名乗ることを許され、筆を与えられ、さらに紋の付いた立派な着物、大小の刀を与えられ、夫婦共々涙して喜んでいる姿を見ながら、つくづく思った事がありました。
伝統文化・芸能の世界にはそれぞれの分野にそれぞれの流派が複数存在しており、流派によって違いが有りますが、何年かお稽古をすると先生から、「もうそろそろお名前を戴いたら?」と打診があり、その流派の苗字を名乗らせて貰うことが出来るのですが、この「吃又」(どもまた)のようなお芝居を久々に見ると、その名前を名乗るという事の重さを改めて感じるのです。

花柳流の場合、「普通名取」と「師範名取」という段階があります。「普通名取」は立役(男:常磐津「廓八景」)と女形(長唄「手習子」)のそれぞれの演目課題の、出された音の部分を即座に踊るという実技試験があり、それに合格すると花柳の姓を名乗ることが許されます。出された音の部分を即座に踊るということは、その課題の全部が踊れて、かつ音を熟知していなければ、即座に踊ることは出来ません。え~っと、この音の振りはどうだったっけ?なんてウロウロしていたのでは花柳の名前を頂く事は出来ません。下の名前は自分の先生の名前の中から一文字、同じ字を取った名前を名乗ることが多く、名前を見ただけで何処の系列の弟子なのかが、すぐにわかる様になっています。

「普通名取」に関しては花嫁道具にと名前を頂く良家のお嬢さんもいたり、プロになる通過点として名取になる人も居たりで、「名取」と一口に言っても、その実力の程にはかなりの差が有ることは否めません。 「師範名取」の試験はぐっとハードルが高くなります。立役(清元「北州」)と女形(長唄「娘道成寺」)のそれぞれの演目課題の全曲を踊るのですが、緊張感の中ぶっ続けで1時間踊り詰めです。集中力の持続と体力が求められるわけです。それからその実技試験に合格するとさらに筆記の試験があるのです。つまり、実技試験に合格できなければ筆記試験を受けることは出来ないのです。試験問題は鳴り物の意味、またそれがどの場面で使われるか、役によっての衣裳、小道具、後見の仕方、歌詞の意味等、範囲は「踊り全般」と多岐に亘り、特殊な言葉や漢字の使われ方の有る世界の勉強は、手の付けようが無く最初は愕然としてしまいました。とにかく今思い返しても長い一日でした。受験料は名取試験の方が値段が高く、師範試験の方が一回ではなかなか合格が難しいため、何度でも試験に挑戦できるように安く設定されています。他の流派はそれぞれ違った方法で名前を与えているようですが、流派によっては特に試験も無く、先生の一存で名取になれる流派も有るようです。

名前は普通名取の試験の時に頂きますので、師範試験は人を教えても良いという資格を授与されるという事になります。名前を頂くと、家元とお盃を交わし、木の名札と流儀の扇子を頂戴します。師範試験の時は師範の看板を頂き、師範の資格を持つものしか付ける事の出来ない、花柳の紋の付いた紋付を着ることを許されます。師範の資格を頂き、その紋の付いた紋付に袖を通した時、あ~、これでやっとプロの入り口に立てたのだなと、感慨無量だった事を覚えています。矢張り未だに流儀の紋付を身に付けると、より一層背筋の伸びた特別の気持ちになります。

昔に比べると伝統芸能の世界に限らず、私を含め一般に名前を守る、ひいては家系を守るという気持ちが全体的に希薄になっているように思えてなりません。伝統の重さは名前の重さに正比例しているのだと思います。守っていくという事は、古いと言われようが時代錯誤だと言われようが、如何にぶれずにダビングし続けるかという事、さらに形だけでは無くその思いも受け継ぐという事です。しかし今はその心を表すための形だったものから心が失われ、ついには形骸化したその形さえも失われようとしています。ましてや型を、伝統を伝える基となる立場の家系から、もしそれに反する考え方が出て来るとしたら、それはもう伝統の崩壊以外の何ものでもないと思うのです。私は幸か不幸かそのような家系に生まれているわけでは無く、ごくごく一般市民ではありますが、それでも良く考えてみるとその事柄の重さを改めて感じ、今の自分の在り方に罪悪感すら感じてしまいます。総てが軽く軽く扱われてきています。命を掛けて先人達が積み重ねてきた伝統に、見向きもしなくなったこの国の行く末が案じられてなりません。

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