エッセイ

廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の七「和とは何ぞや・・・のお話」

「和」とは何ぞや・・・、という事を研究している方がいらっしゃるというお話しを、以前伺ったことがありました。 結果から申し上げますと「和」は物では無いという事に辿り着いたそうですが、それはどういうことなのでしょうか?
つまり茶碗や棗が台所に只漠然と置いてあるだけではそれは「和」とは言えず、茶碗や棗が茶碗や棗として置いてあるに相応しい場所や空間に存在するという事が 「和」という雰囲気を醸し出す。この「雰囲気」とか「空気」とか「空間」が「和」なのだということです。
茶碗や棗の場合、お茶室の空間で丁寧に扱われてこそ、その物の持つ本来のオーラが出て来ますが、台所に転がっている様な状態では、 只の湯呑み茶碗と変わらなくなってしまいます。それと同じように今日本でブームになっている「和」も形だけの「和」なので、若者たちが浴衣を着ていても、 まったく日本の文化の美しさを感じることの出来ないTシャツと変わらない、何ともへんてこりんな「物」になってしまっているのでしょう。
しかしながら日本は自国の文化を、ある一定の時期が過ぎると忘れ去られてしまう「ブーム」にしてしまう世界にも類を見ない不思議な国です。 自国の文化をそんな次元でしか捉えることの出来ない日本人って一体何なのでしょうか?

前回のお話で、私はいみじくも「・・・このように日本舞踊の歌詞は、まるで漆を何回も塗り重ね美しい光沢を醸し出すのと同じように・・・」 と書いていましたが、 正に日本の文化を象徴しているかのようなその「漆器」を英語でその物ずばり、「ジャパン」と言うのをご存知でしょうか? 何故、「漆器」が「ジャパン」と呼ばれるようになったのか、その経緯を私は知らないのですが、 前回その文章を書いている時にはすっかりその事を忘れており、 後でふとしたことから思い出し、それからこの言葉の持つ暗示をずっと考えていました。
「漆器=ジャパン」なら「陶器=チャイナ」です。この相対的なイメージというものは日本人が何と言おうと、 英語圏の人物が漆器や陶器という代表的な工芸品を、 日本や中国に持つ象徴的なイメージとして国名で表現したもので、何とも皮肉な気がします。 現代の日本人が自国の文化であるにも関わらず忘れている本質的な物を、彼らは知っているのかも知れません。 実際に彼らの方が日本の優れた感性や技術に対して敏感且つ、ある意味貪欲です。以前映画「ラストサムライ」を見たときに私が感じたのは、 感動と憤りでした。 感動に比例して憤りが大きくなったのも、なぜ此の映画を撮ったのが日本人ではないのかという思いを抑えることが出来なかったからです。 とても感動し涙した映画でしたが、もう一度見たいという気になれないのは、その複雑な思いを二度としたくないからかも知れません。

「漆器」だけでなく、日本を代表する素晴らしい養殖の技術を有する「真珠」もアコヤ貝の懐で真珠層が何層にも巻かれ美しい光沢を放つ、 また「着物」も重ねて着る、色も極彩色というよりは一色の中に他の色のニュアンスを感じられる・・・・。このように考えていくと日本文化は 自然と向き合いじっくり育て慈しむ、農業と同じでは無いのかと思えてなりません。
雨や風や太陽と共に共存共栄し、水や光や熱の調和がなければ作物は育ちません。そんな生活、四季の中で培われた文化だからこそ、 物その物ではなく空気や雰囲気が伴わなければ「和」とは言えないのでしょう。 欧米の狩猟民族の様に人の物を奪うのDNAではなく、慈しみ育てる農耕民族のDNAを持つからこそ、このような文化が育ってきたと言えるのでしょう。

面白いことに「和」という字は米を口にするという意味も有るそうです。そして「足し算」を「和算」というように単純に数字を足すと言うよりは 違うもの同士を調和させ別の発展したものを作り出す、「和」にはそんな素晴らしい精神性を伴い、さらに「和」は「輪」にも通じるのです。
日本人の本質的なものはDNAの中にしってかり組み込まれているはずなので、こういった優れた国民性の本質は変わらないはずです。 様々な国のものを迷うことなく取り込んで、すぐに日本風にアレンジしてしまったり、世界に誇る日本独自の技術を持っていたり・・・。 ただ今問題なのはその考え方、思想の基本の全てが欧米のものに基準を置いているということなのです。家族や会社、 服装や音楽も人と人の結びつきもすべてのものが欧米化し、例えばミス・ユニバースの日本代表基準も、如何に欧米人に近いかが判断基準で、 日本女性の美しさを世界に誇ろうとしているとはとても思えません。

今の日本がめちゃくちゃになっているのは、本来の日本人のDNAに反する全ての考え方がもう限界に来ているからなのです。 もう一度全ての基本を日本の伝統文化に学びなおす事によって、日本人が本来持つ素晴らしい感性や特質が開花するに違いないと、私は固く信じています。
農業=Agriculture→culture=文化。こじ付けかも知れませんが文化はやはり丁寧に土地を耕し、作物を見守り育て慈しむ農業のようなもの。 雨や風や太陽の自然の声を聞きながら、自分たちも自然の一部として生きていた頃の日本人の「和」の心を私自身ももっと感じたい、知りたいと思います。 2008年、今年はそんな年になりそうです。

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